「受信者」責任

今日は朝から
長岡京市友好交流協会の25周年記念の式典が開催され、
私も参加させていただいた。

長岡京市友好交流協会は、
アーリントン市(米)、寧波市(中国)、伊豆の国市(旧伊豆長岡町)など、
長岡京市の友好姉妹都市との交流事業などを積極的に行っておられる。

今日の式典では、
京都外国語大学のジェフ・バーグランドさんが
異文化コミュニケーションについて講演をされた。

様々な国のコミュニケーションを分析すると、
「発信者」責任に重きが行われる国と
「受信者」責任に重きが行われる国があるらしい。

この基準からすると、
日本は「受信者」責任が世界で1番重要視される国だそうだ。

確かに、
日本人は「言葉」にしなくてもその場の空気や相手の意思を
慮るケースが多いように感じる。

例えば電車の中で。
前に立っている人の傘が座っている人の足に倒れかかったとする。
立っている人は本を読んでいて気付かない。

日本では、
座っている人が、咳払い一つ。「ううん」。
それに反応した立っている人が「すいません」。
そう言って無事その場が収まる。

外国では、
座っている人が立っている人に対して、
「すいません。傘が足にあたってるのですが」
最低でもそこまで言わなければならない。

確かに、こうした相手の立場なりを推察した上で、
情報の受け手の側が解釈をするケースは多い。

もちろんジェフ・バーグランドさんは、
こうした日本人があまり意識しない「文化」を大事にするべきだ
という趣旨でお話をされていた。
そんなお話をお聞きしながら。

日本の政治家の言葉と欧米の政治家のことばと比較をすると、
メッセージ性が弱いという点も、
こんな日本人の特性にあるのかなどと考えた。
言葉を解釈する側に「何とかわかってよ」。
そんな責任をおしつけてしまっているのだろうか。